『暇と退屈の倫理学』という本が、深い洞察に満ちた作品でした。
『暇と退屈の倫理学』簡単解説
『暇と退屈の倫理学』は、「暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか」を論じた作品です。
筆者の國分功一郎さんは哲学を専門とする大学の先生であり、過去の哲学者が残した書物を紐解きながら、「暇」と「退屈」について理解していく形となっています。
本書は、一見簡単なように見えて掴みどころのない「暇」・「退屈」に関して、次のような解釈の仕方を提供してくれます。
- 暇、退屈とは一体何なのか
- 暇、退屈をなぜ感じてしまうのか
- 暇、退屈とどう向き合うべきか
「なんだか暇だな」、「なんとなく退屈だ」。このような感覚の正体について少しでも考えたことのある方は、とても楽しめる本だと思います。
暇と退屈の違い
本書の中身を解説する前に、まずは「暇」と「退屈」の言葉の意味について考えてみます。
今日は暇だな。
なんだか退屈だわ。
我々は「暇」と「退屈」を同じような意味で用いますが、筆者はこの2つを明確に区別しています。
- 暇:何もすることのない、する必要のない時間(客観的な状態)
- 退屈:何かをしたいのにできないという感情(主観的な気持ち)
意味を明確にすると、「暇」であっても「退屈」していない人(充実した休日を過ごしている人)や、「暇」ではないのに「退屈」している人(単純作業の仕事に忙殺されている人)が存在していることにも気づきますね。
「暇」と「退屈」が区別できれば、社会に対する見方がより広がっていきます。
人間はいつから退屈し始めたのか
人間が「退屈」を強く感じるようになったのは、農耕社会が始まり、定住するようになった頃(約1万年前)であると筆者は述べています。
人類はもともと狩猟採集民として暮らしていました。狩猟採集民は狩りをしながら各地を転々とするわけですが、新天地で獲物を探したり安全な寝床を確保する作業は、人間の五感と想像力をフルに活用する作業でした。このような日々に「退屈」という二文字は無かったわけです。
しかし、定住生活が始まってからは新しい環境で過ごす機会も少なくなり、毎日畑に出ては単純作業を繰り返す日常が続くようになります。このような生活は狩猟採集民の生活と比べるとやはり”味気ない”ですよね。
人間が定住生活を始めてから「退屈」を感じるようになった証拠として、「文化の発達」があるといいます。例えば日本で定住生活が始まったとされる縄文時代は、人々が土偶や装飾具などをたくさん作り始めたとされています。土偶や装飾具は生きるためには不必要ですが、人間の有り余った想像力の受け皿として、このような文化が発達していったのです。
定住生活が始まって人間は自身の想像力を持て余すようになり、「暇」の中で「退屈」するようになった。そして、「気晴らし」としての創作活動(芸術)が発展した。
暇につけ込む資本主義
ここで、一つ疑問が浮かびます。現代を生きる私たちも確かに余暇を享受していますが、気晴らしとして創作活動をしたり芸術を楽しむ人はあまり多くありませんよね。現代人は余暇を一体どのように過ごしているのでしょうか?
筆者は、現代人の「暇」は経済活動の一部として取り込まれてしまっている、と主張しています。
十九世紀の資本主義は人間の肉体を資本に転化する術を見出した。二十世紀の資本主義は余暇を資本に転化する術を見出したのだ。
『暇と退屈の倫理学』(太田出版)130ページ
現代人が「なんだか暇だな~」と感じる時にまず考えるのが、旅行・外食・ギャンブルなどのいわゆる”レジャー”ですね。
レジャー産業は何をしたらいいかよくわからない人たちに「暇つぶしのパッケージ」を提供します。そして、我々は「そうだ。これこそが本来自分のやりたっかったことだ!」といわんばかりに余暇をレジャーに費やしています。平日は会社のために働き、休日はレジャー産業のために働いているとも言えますね。
レジャー産業は我々に「暇つぶし」を与えますが、決して「満足感」を与えてはくれません。なぜなら、人々に繰り返し利用してもらわなければ、産業として成り立たないからです。
「ヨーロッパを楽しみたいならこのコース」、「中華料理が好きならこっちの店もおすすめ」、「パチンコの新台が出たよ」…。一度サービスを利用したら次から次に広告や案内が届き、我々に消費させようとします。
このように情報を浴びまくっていては、自分がそもそも何をどのくらい欲していたかなんて、分かりようがありませんね。
暇を楽しむ技術
レジャー産業の思う壺になっていると言うのなら、一体どうしたらいいのよ…。
こんな声が聞こえてきます。
筆者は、暇を楽しむには「贅沢を取り戻す」必要があると主張します。
贅沢とは浪費することであり、浪費するとは必要の限界を超えて物を受け取ることであり、浪費こそは豊かさの条件であった。(中略)
浪費は物を過剰に受け取ることだが、物の受け取りには限界があるから、それはどこかでストップする。そこに表れる状態が満足である。
『暇と退屈の倫理学』(太田出版)355ページ
消費行動においては人は物を受け取らない。だから消費が永遠と続く。ならば、物を受け取れるようになるしかない。物を受け取ること、それこそが贅沢への道を開く。
『暇と退屈の倫理学』(太田出版)356ページ
「たまには晩酌用のビールをプレミアムモルツにする。おつまみをちょっと豪華にする。そして、そのような贅沢ができることに喜びを感じる。」
「そういえば読みたいと思ってまだ読めていない本があった。本を買い、昼からカフェで本を読む。時間を気にせず作品に没頭できることに幸せを感じる。」
単に生きていくためには必要ない物にお金や時間を浪費できる(贅沢できる)状態に、人間は「生活の余裕」を見出し、豊かであると感じると言います。
所ジョージさんの世田谷ベースが「羨ましい!」と感じるのは、あのようなお金・時間の使い方に我々が「生活の余裕」を見出しているからに他なりません。
人はパンのみにて生きるにあらずと言う。いや、パンも味わおうではないか。そして同時に、パンだけでなく、バラももとめよう。人の生活はバラで飾られていなければならない。
『暇と退屈の倫理学』(太田出版)362ページ
我々は「贅沢」を”ムダ”と捉えがちですが、この”ムダ”こそ「豊かさの本質」なのかもしれないと本書を読んで考えるようになりました。
一見ムダと思える物の中にこそ人生を豊かにするヒントが隠れていると捉え直すと、人間が思う「幸せ」はそんなに大それたものではなく、ほんの足元に転がっているものかもしれないと感じられます。
以上、『暇と退屈の倫理学』という本について紹介しました。
「暇」・「退屈」という非常に身近な言葉から始まり、最終的には社会の在り方や人間の豊かさにまでつながる壮大な作品でした。ぜひ皆さんも一読されることをおすすめします。
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